スマホ版 大和郡山御朱印マップ

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三社とお城の歴史

郡山城の歴史は、1580年(天正8年)大和の戦国大名 筒井順慶の築城に始まります。1585年(天正13年)には豊臣秀長(秀吉弟)が、郡山に入部し本格的な城郭と城下町の建設を開始し、約5.5kmの外堀に囲まれた城下町が完成しました。江戸時代には、徳川家の譜代大名が藩主となり、大和国の政治経済の中心として栄えました。

 

豊臣秀長は、城下の東南に商工業者を集めて自治権や独占営業権を与え強力な城下町振興策を進めました。これらの町は城下町経済の中心として「箱本十三町」と呼ばれ、400年以上経った現在も綿町、紺屋町、本町、今井町、奈良町、堺町、藺町、柳町、茶町、豆腐町、魚塩町、材木町、雑穀町の13の町名が残っています。

 

大和郡山の城下町は、平城京九条大路の南側に位置しています。奈良時代には東大寺の荘園清澄庄があり、そこから平安時代に薬園庄が、鎌倉時代には郡山庄が独立しました。郡山庄は現在郡山城跡がある丘陵地を拠点にして郡山八幡神社を鎮守社とし、また、薬園庄はその東の秋篠川に面する平坦地を拠点にして薬園八幡神社を鎮守社とし、ふたつの八幡神社は、郡山城が築城される数百年以上前から土地の護り神として祀られていたと伝えられます。

室町時代末期の1491年(延徳3年)薬園八幡神社は、地侍小田切春次の砦建設のため魚町から現在の材木町へ遷座したと伝えられます。
また、郡山八幡神社は、1585年(天正13年)から始まる豊臣秀長の築城のため郡山城跡のある丘陵地から遷座し、柳町の町作り完成により現在の柳四丁目へ移ったと伝えられます。
そして、このころ源九郎稲荷神社は、豊臣秀長が郡山城の鎮守として(一説には吉野から勧請し)城内に祀ったと言われます。その後、江戸時代中頃の1719年(享保4年)に現在の洞泉寺町に遷座したと伝えられています。